as its name suggests, became a shoemaker.
~シューメイカー、その名の通りシューメイカー(靴職人)となる~
1893年、アメリカ中西部のミシガン州グランド・ラピッズに移住したジョン・ヘンリー・シューメイカーは当時15歳で、しばらくはその町で新聞配達の仕事をしていました。しかし、地元の有名なシューズ製造会社である”リンジ・カルバック・ロギー&カンパニー”での求人を見つけすぐに応募し採用されたことをきっかけに、後にWESCOの創設者となるジョンはブーツ作りの修行を積んでいきます。当時近郊の町ミシガン州サギナウ市は林業の世界的中心地であったことから、ロガーブーツの注文が殺到していました。職場で多くの技術を習得したジョンでしたが、1903年、新たなチャンスを求め西海岸へ向かいます。
~若者よ、ゴー・ウェスト!~
妻と幼い娘をグランド・ラピッズに残し、一人シアトルに向けて旅立ったジョン・ヘンリー・シューメイカーでしたが、オレゴン州ポートランドに辿り着いた頃には一文無しになってしまいました。早急に仕事を見つける必要があったジョンでしたが、幸運にもポートランドのハーバート・ブラッドリー・シュー・カンパニーでの仕事を見つけることができ、その年の内に家族を呼び寄せポートランドでの新生活を開始することとなりました。
~独立~
ハーバート・ブラッドリー社で働くようになって間もなく、地元の林業関係者が「スパイク付きロガー・ブーツ」を作れる職人を探していました。そのブーツの製法は正にリンジ・カルバッグ・ロギー時代に教わった特殊な製造方法で、当時西海岸でそういったブーツを作る職人はジョン以外にいませんでした。彼との出会いによってジョンの評判は次第に地元のロガーキャンプで広まっていきます。ハーバート・ブラッドリー社で7年間働いた後、マネージャーとしてグッドイヤー・シュー・カンパニーに移りプロダクションとリペア部門を任されることとなりました。10年弱勤めていたグッドイヤー社では最新の工作機械でのブーツ作りを始めており、ジョンはその中で生産効率を上げる方法を独自に習得していきました。そして、40歳になった1918年、ポートランドにウエスト・コースト・シュー・カンパニー(WEST COAST SHOE COMPANY = WESCO)という自身のショップをオープンさせることとなります。
~天国と地獄~
ウエスコのビジネスの核は、ミシガン州時代での仕事と同じくロガーブーツの生産で、創業の1918年から1929年の間に4回も移転を繰り返すほどビジネスが拡大していきました。しかし、1929年10月に起こった世界大恐慌による影響はウエスコにも大きな打撃を与えることになります。
~逆境に強いタフガイ!~
大恐慌によりアメリカ国民全員が失業状態となってしまい、勿論ブーツの需要は全くありませんでした。ウエスコも閉鎖せざるを得なく、ビジネス、貯金、家を失ってしまったジョンに残されたのはブーツ・メイキングの道具とフッド山近郊の別荘のみでした。その別荘と土地をポートランドから20マイルほど離れた田舎町、スキャプースにある丘の上の11.5エーカー(約46,540㎡)もの広大な土地と交換し、自分で家を建てました。そして、その地下スペースにブーツ工房を構えたのです。
~ファミリービジネスの誕生~
新しい工房を作ったものの、職人を雇う余裕はなく、長女のルエラ(会計担当)や長男ジョンJr.(製造作業、後の二代目社長)、更には当時小さかった末っ子のボブ(後の三代目社長)も放課後に床掃除を手伝うなど、家族全員で力を合わせてブーツ作りを再開しました。日に8足の生産が限度でしたが、ジョン自らが地元のロガーキャンプへ足を運び、直接ブーツのオーダーを取って回っていました。その後、徐々に売上が伸び、ビジネスの回復の兆しが見え始めた頃には自宅の隣りに工房を作るまでになりました。なお、1937年当時、ウエスコの工房は二階建て2,400平方フィート(約223㎡)の面積でしたが、現在も19,000平方フィート(765㎡)の面積の工房が同じ場所にあります。
~戦争需要~
1930年代から40年代初期を通じてビジネスは順調に伸びており、第二次世界大戦の勃発によりブーツの需要は急増しました。アメリカ西海岸の至るところから造船要員用のエンジニアブーツのオーダーが殺到し、国内景気の回復に伴いロガーからの大量オーダーにも対応することとなったためです。戦争は悲しいことですが、それによりアメリカ国内の至るところでビジネスが回復したのも事実です。
~躍進~
第二次世界大戦が終わるとアメリカ経済は勢いよく復活し、「アメリカ史上最大の好景気」に突入していきます。ウエスコの工場も従業員が30人以上に増え、それに伴いビジネスは更に拡大し、同時に新たなサービス、”ブーツ・リビルド”を請け負うようになりました。愛着のある履き古したブーツが蘇るということはウエスコ愛用者にとってはこの上ない魅力であり、ウエスコの成長過程で「有効利用」というコンセプトは常に存在しています。また、1952年ジョンはロガーブーツのプロダクションを画期的に変えてしまう特別な機械を開発しました。それまではヒールとソールに102個のスパイクを取り付けるには力のある職人のハンマーによる手作業が必要でしたが、新しく開発したスパイク・パンチマシーンにより、コストの削減と作業効率の向上を達成することができました。創業から100年以上が過ぎた現在もウエスコはブーツの愛用者の声に耳を傾け、常にブーツの改良・進化を目指しブーツ作りに取り組んでいます。
~世代交代~
ファミリービジネスが壊滅の危機に面している今の時代、ウエスコの誇りは代々に渡り今もジョン・ヘンリー・シューメイカーが築いてきたビジネス哲学を受け継いていることです。息子のジョンJr.とボブは1960〜1997年の間、父ジョンの意思を継ぎウエスコを更に大きくしました。1990年代以降は第三世代に引き継がれ、特にジョンの孫、三代目社長ボブの三女であるロバータ・シューメイカーが1998年に五代目社長に就任後は海外からのオーダーが増え、特に日本で高い評価を得るようになりました。今ではハードワーカーの足元を守るワークブーツとしてだけでなく、”アメリカを代表するハイエンド・ブーツ・ブランド”として、世界中のファッション好きの間にも知れ渡っています。
1990年代以降は第四世代が経営に加わっており、後継者問題とは無縁のウエスコでは今後も途絶えることなくファミリービジネスが続いていくでしょう。
as its name suggests, became a shoemaker.
~シューメイカー、その名の通りシューメイカー(靴職人)となる~
1893年、アメリカ中西部のミシガン州グランド・ラピッズに移住したジョン・ヘンリー・シューメイカーは当時15歳で、しばらくはその町で新聞配達の仕事をしていました。しかし、地元の有名なシューズ製造会社である”リンジ・カルバック・ロギー&カンパニー”での求人を見つけすぐに応募し採用されたことをきっかけに、後にWESCOの創設者となるジョンはブーツ作りの修行を積んでいきます。当時近郊の町ミシガン州サギナウ市は林業の世界的中心地であったことから、ロガーブーツの注文が殺到していました。職場で多くの技術を習得したジョンでしたが、1903年、新たなチャンスを求め西海岸へ向かいます。
~若者よ、ゴー・ウェスト!~
妻と幼い娘をグランド・ラピッズに残し、一人シアトルに向けて旅立ったジョン・ヘンリー・シューメイカーでしたが、オレゴン州ポートランドに辿り着いた頃には一文無しになってしまいました。早急に仕事を見つける必要があったジョンでしたが、幸運にもポートランドのハーバート・ブラッドリー・シュー・カンパニーでの仕事を見つけることができ、その年の内に家族を呼び寄せポートランドでの新生活を開始することとなりました。
~独立~
ハーバート・ブラッドリー社で働くようになって間もなく、地元の林業関係者が「スパイク付きロガー・ブーツ」を作れる職人を探していました。そのブーツの製法は正にリンジ・カルバッグ・ロギー時代に教わった特殊な製造方法で、当時西海岸でそういったブーツを作る職人はジョン以外にいませんでした。彼との出会いによってジョンの評判は次第に地元のロガーキャンプで広まっていきます。ハーバート・ブラッドリー社で7年間働いた後、マネージャーとしてグッドイヤー・シュー・カンパニーに移りプロダクションとリペア部門を任されることとなりました。10年弱勤めていたグッドイヤー社では最新の工作機械でのブーツ作りを始めており、ジョンはその中で生産効率を上げる方法を独自に習得していきました。そして、40歳になった1918年、ポートランドにウエスト・コースト・シュー・カンパニー(WEST COAST SHOE COMPANY = WESCO)という自身のショップをオープンさせることとなります。
~天国と地獄~
ウエスコのビジネスの核は、ミシガン州時代での仕事と同じくロガーブーツの生産で、創業の1918年から1929年の間に4回も移転を繰り返すほどビジネスが拡大していきました。しかし、1929年10月に起こった世界大恐慌による影響はウエスコにも大きな打撃を与えることになります。
~逆境に強いタフガイ!~
大恐慌によりアメリカ国民全員が失業状態となってしまい、勿論ブーツの需要は全くありませんでした。ウエスコも閉鎖せざるを得なく、ビジネス、貯金、家を失ってしまったジョンに残されたのはブーツ・メイキングの道具とフッド山近郊の別荘のみでした。その別荘と土地をポートランドから20マイルほど離れた田舎町、スキャプースにある丘の上の11.5エーカー(約46,540㎡)もの広大な土地と交換し、自分で家を建てました。そして、その地下スペースにブーツ工房を構えたのです。
~ファミリービジネスの誕生~
新しい工房を作ったものの、職人を雇う余裕はなく、長女のルエラ(会計担当)や長男ジョンJr.(製造作業、後の二代目社長)、更には当時小さかった末っ子のボブ(後の三代目社長)も放課後に床掃除を手伝うなど、家族全員で力を合わせてブーツ作りを再開しました。日に8足の生産が限度でしたが、ジョン自らが地元のロガーキャンプへ足を運び、直接ブーツのオーダーを取って回っていました。その後、徐々に売上が伸び、ビジネスの回復の兆しが見え始めた頃には自宅の隣りに工房を作るまでになりました。なお、1937年当時、ウエスコの工房は二階建て2,400平方フィート(約223㎡)の面積でしたが、現在も19,000平方フィート(765㎡)の面積の工房が同じ場所にあります。
~戦争需要~
1930年代から40年代初期を通じてビジネスは順調に伸びており、第二次世界大戦の勃発によりブーツの需要は急増しました。アメリカ西海岸の至るところから造船要員用のエンジニアブーツのオーダーが殺到し、国内景気の回復に伴いロガーからの大量オーダーにも対応することとなったためです。戦争は悲しいことですが、それによりアメリカ国内の至るところでビジネスが回復したのも事実です
~躍進~
第二次世界大戦が終わるとアメリカ経済は勢いよく復活し、「アメリカ史上最大の好景気」に突入していきます。ウエスコの工場も従業員が30人以上に増え、それに伴いビジネスは更に拡大し、同時に新たなサービス、”ブーツ・リビルド”を請け負うようになりました。愛着のある履き古したブーツが蘇るということはウエスコ愛用者にとってはこの上ない魅力であり、ウエスコの成長過程で「有効利用」というコンセプトは常に存在しています。また、1952年ジョンはロガーブーツのプロダクションを画期的に変えてしまう特別な機械を開発しました。それまではヒールとソールに102個のスパイクを取り付けるには力のある職人のハンマーによる手作業が必要でしたが、新しく開発したスパイク・パンチマシーンにより、コストの削減と作業効率の向上を達成することができました。創業から100年以上が過ぎた現在もウエスコはブーツの愛用者の声に耳を傾け、常にブーツの改良・進化を目指しブーツ作りに取り組んでいます。
~世代交代~
ファミリービジネスが壊滅の危機に面している今の時代、ウエスコの誇りは代々に渡り今もジョン・ヘンリー・シューメイカーが築いてきたビジネス哲学を受け継いていることです。息子のジョンJr.とボブは1960〜1997年の間、父ジョンの意思を継ぎウエスコを更に大きくしました。1990年代以降は第三世代に引き継がれ、特にジョンの孫、三代目社長ボブの三女であるロバータ・シューメイカーが1998年に五代目社長に就任後は海外からのオーダーが増え、特に日本で高い評価を得るようになりました。今ではハードワーカーの足元を守るワークブーツとしてだけでなく、”アメリカを代表するハイエンド・ブーツ・ブランド”として、世界中のファッション好きの間にも知れ渡っています。
1990年代以降は第四世代が経営に加わっており、後継者問題とは無縁のウエスコでは今後も途絶えることなくファミリービジネスが続いていくでしょう。